見慣れた街の風景が、列車の窓の外を右から左へと流れてゆく。

視界に入っては消えていく無数の家々の明かり。

この沢山の光のなかに、我が家ほど壊れきった家庭など存在するのだろうか。

藤堂博隆はそんなことを考えながら、今日も陰鬱な表情で会社帰りの列車に揺られていた。



「娘の世話があるので、残業は一切できません」

そう言って毎日定時に帰っていれば、さすがに上司の受けも最悪になる。

今日も自分の小さなミスを捕まえて延々怒鳴られたことを思い出し、彼はため息をついた。



地平線に沈む夕焼けのかすかな残滓が、彼の顔をわずかに照らす。

腕時計の針は、まだ午後6時を回ったばかりだ。

あと数十分もすれば、またあの家に帰らなくてはならない。

今はもう、自分のものではなくなったあのマンションに。

博隆はさらに気分が落ち込んでいくのを感じ、悪い想像を振り払うように、その両目を強くつぶった。



博隆の幸せの象徴だったあの家は「あの日」から変わってしまった。

もちろん、諸悪の根源は自分自身の過ちだということくらい、彼にもわかっている。

しかし、どうしてたった一度の浮気のしっぺ返しが、こんなに人生を捻じ曲げるほど恐ろしい事態を引き起こすことになってしまったのだろうか。

同じ方向へゆったりと流れていく夕方の町並みをながめながら、博隆はどんよりと思考を堂々巡りさせていた。



今日も家はめちゃくちゃになっているだろう。

床には使用済みのコンドームやビールの空き缶が散らばり、灰皿は煙草の山。

もうすぐ3歳になる娘、陽菜のすぐ横で、あいつらは平気で淫蕩なセックスを楽しんでいるに違いない。

帰ったら、そんな彼らのために自分は夕食を準備し、部屋を掃除し、風呂の世話までしなくてはならないのだ。

愛する妻に足蹴にされ、軽蔑され、見下されながら…。



・・・ヴーッ、ヴーッ・・・



着信を告げる携帯の振動が、彼の思考を一時停止させた。

博隆はのろのろとスーツの胸ポケットから携帯を取り出す。

二つ折りのそれをパカリと開くとディスプレイに手紙を模したアニメーションと「陽美」の二文字が表示された。妻からのメールだった。



妻が仕事の合間に送ってくれる励ましのメールに喜び、やる気を奮い立たせていたのはいつのころまでだったか。

妻から送られてくるメールはいま、彼にとってただ苦痛でしかなかった。

メール内容のだいたいの予想がついて、博隆は陰鬱な気分をさらに強めながら、携帯のキ

ーを操作した。



≪本文:もうコンドーム無くなっちゃったから買ってきて。あとカレの煙草とビール。20分以内≫



表示されたのは、たったそれだけのメールだった。

自分の大切な夫であるはずの博隆を、使い走りか奴隷のように扱う妻。

彼女にとって博隆は現在「パシリ」以外の何者でもないのだった。

中学生のころ、クラスの体格のいい不良たちに小突かれてはコンビニに使い走りにされていたことを思い出してしまう。

密かに憧れていたクラスの女の子の前で馬鹿にされパンツまで下ろされたこともあった。はじめは顔をおおって恥ずかしがっていた彼女も、3学期が始まるころには完全に博隆のことを見下し他の男子や女子と同じく「ソ」というあだ名で彼を呼ぶようになっていた。

人間につけるにはあまりにも惨めなあだ名。「ソ」は粗末の「ソ」粗チンの「ソ」だ。



「あーきょうの宿題だるいなー、遊びにいく約束してたのに」

「いーよ『ソ』にやれせればwみんなの宿題一回10円でやってくれるってさっきゆってたしw」

「ほんとー?悪いね『ソ』♪あたし彼氏と遊びにいくからさ、ちゃんと筆跡まねといてね

ぇ♪」

「う、うん・・・」



辛かった中学時代。

いじめの記憶はほとんど忘れられたが、この会話だけはいつまでも鮮明に覚えている。

憧れの女の子と交わせたわずかな会話。最悪の思い出だ。



≪ヴーッ!ヴーッ!≫



博隆がみじめな回想に耽っていると、またもう1通、別のメールが携帯に着信した。



≪パカッ、ピッ・・・≫



今度は妻からではなかった。送信者の覧には「陽美の彼氏様」と表示されている。

もちろん「彼」が博隆にそう登録するよう強要したのだった。



受信に不自然に時間がかかっている。

どうせいつもと同じく、陽美のぶざまなフェラ顔でも映した写メでも添付されているのだろう。

彼はメールの完全受信を待たずに、静かに携帯を閉じた。

以前、いきなり「乳首ピアス開通記念♪」などと書かれた画像付きのメールが送られてきたことを思い出す。

あんな画像、下手に電車内で開けば変質者扱いされるところだ。



ちなみにその画像が添付されていたメールには

「おいヒロ、これをオカズに駅前でセンズリこけよw」

という無茶な命令までついていたが、そんな屈辱的なことをされても、自分には一切あらがうことはできない。

自分にできるのは「彼氏様」にうやうやしく頭を下げ

「ご主人様の命令に背いて申し訳ありませんでした」と謝罪することだけなのだ。



陽美の彼――「タカシ」。

頭もガラも悪いあの大学生のせいで、妻との穏やかな生活は一変してしまった。

何回殺しても殺したりない男に、今日も自分は奉仕させられる。

あの男と顔を合わせてまだ一週間もたっていないというのに、自分の生活は一切が台無しにされてしまった。



家の最寄り駅に列車が到着し、博隆はうんざりした表情でホームへと降りた。

帰りにコンビニにより、命令されたとおりに買い物を済ませなくてはならない。

時計を見る。すでにメールから6分が経過していた。あと14分以内に帰らなければ、今度は何をされるかわからない。

博隆はやや早足で改札を出ると、駅前のコンビニであるだけのコンドームをかごに放り込んだ。



なぜ、こんなことになってしまったのか…。



たばこのカートンケースで大量のコンドームの箱を隠すようにしながら、彼はぼんやりと考えた。

先日彼に蹴りつけられた脇腹が、まだ痛む。

博隆はコンドームの箱を赤面しながらレジに並べる。

ふと、陽美に浮気がばれてしまった数ヶ月前のことを思い出してしまっていた。
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